2018年元旦

ちょうど1年前の元旦に母が亡くなった。同じ年の10月に父も亡くなった。

先日母の1周期を済ませたところだ。年末に兄弟3人家族が集まったが、お正月はない。

本当に帰るところがなくなった。想像してたより意外にも寂しくて悲しい。

実家は空き家である。相続は弟がするけれど、自分の家はすでにある弟は今後住むことはないだろう。誰も住むあてのない家をこれからどうするのか、いよいよ考えなくてはならない。

毎年お正月とお盆と、GWと3人兄弟がそれぞれの家族を連れて帰って、おおにぎわいで過ごしていたのに。ついこの前まで。

両親がいた間は娘でいられた。娘でいられたことがこんなに幸せなことだったとは、今さらながら気が付いた。失ったものは案外大きい。

年末年始と、一年を振り返ったりしていろいろ思う。

家族といれば日常にまぎれるけど、犬の散歩しながらとか、ひとりで風呂入りながらとか、いろいろいろいろ思って、まだ涙する日々です。

実はブログなるものを書くのは初体験です。親の介護について書こうかなと思い始めました。母の介護は悲しいことばかりでしたが、父の介護は病気期間が長くてゆるやかなこともあって、珍道中でおもしろおかしいこともたくさんあったのです。

でももう介護は終わったので、この先なに書こうと思いましたが、なにせ初めてなので、日記のように思いつくこと書いてみます。練習です。

来年50になる私は、アラフィフ女の生態について書いてみようと思います。

そして父も亡くなり

母の介護について記録しておこうとブログを始めてみたものの、このあと父の介護も大変となり、あっという間に一年が終わりました。

平成29年1月1日元旦に、母が亡くなりました。70才でした。

平成29年10月13日に父も亡くなりました。80才でした。

母が亡くなって四十九日の法要まではと、慣れない介護ヘルパーさんなども受け入れつつ、父はがんばって一人暮らしを続けていましたが、その後一人暮らしも困難となり、入院4カ月ののち、施設に入居し3カ月であっけなく亡くなってしまいました。

母の病気が分かり、両親二人の介護がいっぺんにやってきて、人生最大のピンチだと右往左往してるうち、次々と状況が変わる目の前のことに対処するだけでしたが、1年ちょっとで私の両親介護生活はあっけなく終了したのでした。

最後はお父さん、子供らに迷惑かけまいと、あっさりと旅立ったのかな。

あっさりすぎて、ぽかーんとなってしまった。

親の介護が突然やってきた

父は10年くらい前から、心筋梗塞、糖尿病、5年くらい前から膀胱がんに腎臓がんと、たくさんの病気を抱えており、入退院をくりかえしてきました。

3年くらい前からは、もはやできる治療はありませんということで、抗がん剤もやめ、自宅で母に介護されながらクラしておりました。

子どもは私と弟妹と3人いますが、みんな実家を離れております。

母は父より9才も若く、健康で元気がとりえというタイプだったので父の介護は全面的に母にまかせきりで、元気な母がいて本当によかったーと思っていたのです。

そんな母が入院するとなったら、家族全員が大変困るわけです。

父をどうするんだと。

母の入院は5日後の7月5日に決まりました。

がんはすでに大きすぎて取り除く手術はできないけど、抗がん剤で進行を遅らせる治療をすることになりました。

2週間くらいの入院となりそうでした。

私はそんなすぐに入院しなくても、少し旅行したりとか、おいしいもの食べに行ったりとか、会いたい人に会って、行きたいとこに行って、少しだけ楽しいことしてからでも遅くないんじゃないの?私ならそうするけどなーと言いました。

父が抗がん剤治療を2年ほどやったので、その様子をみていましたので抗がん剤をしたとたん副作用でぐったりし、決してよくはならず、回数を経るごとに徐々に体力は弱っていくものだと認識していました。

ステージ4という状況からしても、時間稼ぎにしかならないのだから、治療が多少遅くなろうが大差はなく、それよりも今まだ元気なうちにやりたいことをやったほうがいいと思ったのですが、母は楽しめないからいい、早く入院して治療を開始したいと希望しました。

ここは悔やまれます。もっと強く進めてもよかった。

一度入院したら、もう二度と旅行なんてできないと予感していました。でもここで、そんなことは言えません。母は治療して治る気でいるのだろうか。あの真っ白いできものがいっぱいに広がった胃の中の映像を思えば、治るとは到底考えられないのに。

と疑問に思いながら母の意見を尊重するしかありませんでした。

母の胃がんがステージ4と判明した日

49才女性、4人家族プラス犬、地方都市在住。

1年前に、突然やってきた親の介護について記録しておきたいと思いました。

この1年状況が変わるたびあたふたと奔走し、そして今も続いています。

介護はいずれ来るとは思いながら、まだまだ10年以上先のことだと思っていました。

ちょうど1年前になります。

もう1年が経つんですね。まだ1年かな。

昨年H28年6月の初めに2ヶ月ぶりくらいに実家の両親に会いに行ってみたら、母がやせた気がしました。

「あれどうしたのやせたんじゃない?」

「うん、食欲があんまりなくてね、62キロあったのが55キロになった。でも太りすぎだったから、ちょうどいいくらいだけどね。」

母は70の誕生日を迎えたばかり、からだを動かすのが好きな人で、はたけをやり、スポーツをやり、数年前まで仕事もしていた活動的な元気な人でした。

ちょっと検査をと近くの医院でレントゲンをとったところ、甲状腺に影がある、から始まり、検査検査、大きい綜合病院にうつって、さらに検査検査、その結果発表をご家族と一緒に聞きに来て下さい、となりました。

父はたくさんの病気を抱えており、母が父の介護を5年ほどやっていたのですから、連れていくのは大変、検査結果は私と弟が一緒に行くことになりました。

最初の検査から20日ほどがたっておりました。

私も弟も実家からは1時間以上かかるところに住んでいます。

雨の降る6月30日の朝、病院で集合しました。

待ち時間は長かったけど、母と私と弟3人だけの取り合わせなんて珍しく、めったにあることでもないので、いろんな話がはずみました。

このときはがんかもしれないけど、そんなにひどくはないだろう、根拠もなくそんな風にみんなが思っていたと思います。

ところが、医師から聞かされた結果は、胃がんのステージ4でした。

みせられた映像は、胃の中に白くて不気味なできものがいっぱいひろがったものでした。